考えすぎ?

(産地の声)vol.1219     <考えすぎ?>       2015.11.25

 

 話は、農のこととは離れるが、TVのドラマなどで「僕は君をきっと幸せにするから・・・・」と言った台詞が気になってしょうがない。というより違和感を抱き続けている。結婚だとか男女の関係が「そういうものなのか?」と思ってしまうのだ。

 

 私が古い人間だからなのかもしれない。「俺はおまえが好きだ」はいいのだが、「愛してる」という言葉も何かなじめないところがある。愛という言葉の使い方は、郷土愛とか隣人愛とかの方が合っているように思えるのだ。

 宮沢賢治の言うように「世界中の人が幸せにならなければ自分の幸せはない」と語ればまた違う意味合いとなってうなずけるところもある。

 娘に言わせると「そんな風に思うお父さんの方がおかしい!」と言われるのだが、、、、、。自分でもこんなことを書いていると人からはおかしいと思われているだろうなと思うのだが、思うのだからしょうがない。

 苦あれば楽ありと言うことがあるが、「苦労や困難があるだろうけど、共に生きたい」という方が人生の有り様のように思うのだがどうだろうか。乗り越えたところに安堵感や喜びがあるのではないか、とおもうのだ。

 幸せというのは抽象的で個人差が激しいし、こころの問題も潜み、しかもころころと変わる。自分がいいと思っても相手がいいと思うかどうかはわからない。私的に言うならば、「ご縁を大事に、初心忘るるべからず」しかない。

 一生の間に出会える人は限りがあるし少ない。それにこころ交わせる人はもっと少ない。だからこそ出会った人とのご縁を大事に、出会っている大地自然とのご縁も大事にしたいと思う。

 今、二人の娘さんがホームステイをしている。北海道と宮城県からきているのだが、連れ合いが我が家の自家製のポップコーンを出したら、おいしいおいしいと言って食べ尽くしてくれる。気持ちよいほど食べっぷりがいい。

 で、トウモロコシの話が出て、虫の話になり「大丈夫ですか?」と聞く。私たちの食べ物はつくるというより天からの恵みものだ。人間にはつくり得ない地水風火という地球大自然の土台の上に生み出される。全てのものは生成と分解あるいは崩壊、そしてまた生成という循環の中にある。

 自然に対する畏敬の念、感謝のこころを忘れて、我の幸せばかり追い求めている世相だから「僕が幸せにするから」と言った言葉がセリフがでるのではないか。

・・・考えすぎかなあ。            おかげさま農場・高柳功