(産地の声)vol.1435 9年前の震災の時から 2020.3.11
3.11。9年前の今日はあの東北大震災が襲いかかった日でした。私はその時成田空港にいました。ホームステイするタイの学生を迎えに行ったのです。到着便は2時間前に着いたのに中々出てこない。
娘と出口で待っていたら急に建物が揺れ出し、娘に手を引かれながら建物の外に飛び出したのです。中にいた人達が一斉に出て、皆が携帯電話をかけ始めたのです。私も自宅に電話をしたのですが、通話不能、かかりません。
揺れが収まって再び建物に入り学生達と出会うことが出来ました。自宅まで10km位しかないのですが、信号が停止し危険なのでのろのろ運転で帰るしかありませんでした。
当時、我が家にはフランス、台湾そしてタイの学生が加わり5名ほどのウーハーがいたのです。電気は消えろうそくの灯りしかありません。それでもガスが使え食材はありましたので食事は問題なく過ごせました。
暖房は、灯油の買い置きもあり、木炭も用意してあったのでなんとかしのぎましたが、灯りがなくて困りました。
情報がないので車にテレビがある事を思い出し、車のテレビで惨状を知ることが出来ました。「日本沈没」という映画がありましたが、地震による家屋の倒壊、押し寄せる津波に車や家々が一気に流され、起こっていることがウソのような信じられない光景が映し出されていました。
我が家は電気が止まっても流通が遮断しても生活できるように、食べ物、水、薪や炭なども用意してあります。家のつくりも傾いても倒れない構造のはず?ですから家族には「心配するな!」と言ってました。
翌々日だったか、有機農業仲間からお米の支援を呼びかけられ、すぐに仲間にも声をかけて30kの袋のまま送りました。そしたら次からは搗いたお米がほしい、出来れば小袋にしてほしい。現地で働いている人達が手が足りず小分けしたり精米が出来ない。一刻も早く元気付けたい!そういうことでした。
そんなこんなでドタバタしている内に、あの福島原発の爆発が起こり人災とも言われる放射能汚染が始まったのでした。
急遽、放射能検査の出来るところを探し、成田市に大挙押しかけ放射能検査態勢を作るよう要求し、農家もお客さんも安心できる態勢をと、やれるだけのことをしてきました。9年たってようやく安心できるようになった感があります。 byおかげさま農場・高柳功