(産地の声)vol.1543 2022.5.11
まだ田植えをしている。52枚の田んぼの内、35枚を植え終わって、今日は残りの田んぼに水を入れ代掻きを始めたけれど水不足で荒代程度で仕上げにはならない。(田植えにはならない)違う場所の田んぼの補修をし、ポンプを据え付け川から水をあげようと設置したが、水が上がらず、暗くなってしまったので帰る。いつ終わるだろうか。
植えられた田んぼはすでに根付き、時折、田んぼの見回りに来る人が一人二人。誰もいない谷津田の田んぼは少しさみしい。田んぼで会ったムラの知り合いが「隣村のイイダさんが亡くなったと聞いた」「肥料を振ったり、田んぼの準備をしていたらしいんだけど急に亡くなったらしい」「何でもガンだったらしくて再発したらしい」そんな話だった。
川向こうのムラの人で、見るとあちこち植えられていない田んぼが見える。「どうしようもないけど、うちのムラも耕す人がいなくなる恐れがあるねえ」「なんとかしたいけど先のことはわからない!」
そんな会話をして、その夜、農家仲間のツトムさんから電話。「何だ?隣村のイイダさんが亡くなったそうだけれどムラの田んぼが荒れてゆくなあ。そこだけではなさそうに見える。」「うちのムラは共同で田んぼの管理やらして持っているけど困ったことだ。」「気になって電話する気になったんだ。」そんな話だった。
ずっと思ってきた事だけど、農家は地球の管理人だ。(山人も海人もそうだが)田んぼを作るというが、田作りは毎年の事。畦を直し排水路を整備し、田を作る。そして市道や農道の草刈りをして景観を整備する。田植えをするだけではない。
国家の品格を書かれた藤原正彦さんはそこをわかっている人だと思う。TPPはやってはならない。農村が健全でなければ美しい日本でなくなる。と何かの対談で語っていたけれど今の日本人の感覚は恐ろしく何も知らないし、無関心のようだ。
昔ドイツを旅してたときにドイツの都市つくりは日本とは全く違う考えを持っていたことを思い出す。ドイツの都市つくりは、周辺が耕地で囲まれた中に存在するような国だった。別な言い方をすれば農地と自然に囲まれた都市作りだった。
数百年単位で考えればそれが生存の基本的土地利用なのだと思う。先日のTVで自分たちが食べている小麦や大豆、ソバや肉類などどこのものかも知らない人がほとんどだ。少々理屈っぽい言い方だけど、生存基盤言論という学問があるということを教えられたことがあったが、一度立ち止まって足下を見つめた方がいいのではないかと思う。禅宗でいうところの「却下照顧」。とはいえ私もこれが中々できない。 おかげさま農場・高柳功