(産地の声)vol.1617 一農家のつぶやき。 2023.10.18
「稔ほど頭を垂れる稲穂かな」とは、若い頃、老農に教えられた言葉だ。
中々含蓄のある言葉で、時々想い出しては自らを省みる句となっている。
先週麹つくりのことを書いたが、その麹を甘酒にして神様の備える日が17日だった。我が村ではジンジと呼んで、神主さんが準備してくれた幣束を氏神様に供え、甘酒をあげる。区長さんが村中を回って、各家に幣束が配られる。我が家はどういうわけか氏神様が2社あるので二つ戴く。一つ5百円で締めて千円のお代となる。
今時そんなことをしていたら都市部では批判ごうごうになるのではないか、と思う。でも仲間がよく言ってたことだけど、「昔からのことはその意味はよく分からないけど続けていった方がいいと思うんだよな」と言うのを想い出す。
自分もそれでいいのだと思う。そうなるにはそうなるだけの訳があったのだし、我々の先祖の思いがあったればこそそうした風習が残っていたのであって、決して悪いことではない。むしろ、収穫したお米は自然の恵みであって、その恵みをもたらした何かに感謝して手を合わせるのは人間として大切なことではないか、と思う。そんな話をしたら、その甘酒とお祭りに参加したいと二人の女性がおいでになった。お盆に幣束と甘酒を持って、氏神様にあげ一緒に手を合わせてくれた。その後みんなで甘酒を戴いて懇談。それだけでは時間がもったいないので、大豆を煮て、麹をまぶし味噌つきをしてもらった。30kg位かな。
今年は、頭が垂れない稲ができてしまった。一部だが、稲刈り時になって稲が真っ青でしかも穂は垂れず、真っ直ぐ上を向いたままだ。分かったことは、そこに水が充分回らず、いわば部分干ばつの状態でだったのだ。50年稲つくりして初めてそっ立ちの稲の姿を見た。
新潟の地方では川の水が干上がり、収穫皆無の田がでたと言うが、その状態が自分の田で発現、干ばつの稲というのがどうなるのかよく分かった。広い田んぼだと、水を取り入れる所(水ノ口と呼ぶ)に水があれば、大丈夫と思っていたのだが、広い田んぼ全体には回らず途中で水が切れたままだったのだった。猛暑で、入れる水量より蒸散される水分の方が多かった!ということだろう。
毎年同じように種まきし、同じように管理しているのだから同じになるかと言ったら大間違いだ。お米にしろ野菜にしろ猛暑や干ばつと言った現象は人間の行為の上をいく。 世間では野菜の高騰がTVで報道されているが、消費者の側からの報道しかされない。が、生産の現場・農家はもっと大変で、悲惨なことなのだが。 おかげさま農場・高柳功