自然への視点

(産地の声)vol.1658 一老農のつぶやき            2024.8.1

 無農薬自然栽培と称して取り組んできたが、その始まりは、レイチェルカーソンの化学農薬の環境への影響「沈黙の春」だった。

 農に取り組み始め、農とはどういうことか。人類にとって農の歴史ほど重要だったものはない。民族にとって食べ物の獲得がなんと言っても至上の命題だった。アジアモンスーン気候の諸民族は農耕民族と呼ばれ、お米や麦などを主食として歴史をつないできた。

 

 一方、北に住む欧州の民族の穀物の採れない所は草を食べさせて動物を飼い命をつないだ。よって牧畜民族と呼ばれた。農耕文明と牧畜文明は、地球の位置の違い、自然環境の違いから生まれた。

 食の世界からみると、西洋はナイフとフォークであり、東洋は箸の文化となった。栄養学者の川島四郎先生によれば、もし西洋でもお米が採れるようだったら間違いなく米作になっただろう、と言わしめている。

 日本の農に対する取り組みは、自然に畏敬の念を持っての取り組みだった。

 対して、西洋の取り組みは自然を征服する、だった。-とても傲慢だ!

 私の中では、アメリカ人ペリーの来訪から狂ってしまったのではないか、と思っている。まさに人間中心主義で、自然コントロールできるかのような価値観だ。

 大雑把に言えば、化学農薬は環境を汚染またはバランスを崩す。しかもその結果に対し人類は制御できない。カーソンが言うように、核と同じく人間が制御できないものをやるべきではない。

 非常の大雑把な話だが、そんなわけで今の農の姿になってる。どんな時代になろうが、人は食べなければ生きてゆけない。孫子に引き継げる自然環境を、との願いである。だがこの50年を振り返ればこの国は、農をおとしめてきたように思う。それは、まさに今の日本人が農の存在の意味をほとんど意識しないでいる。人間は、食べ物でできていることさえ忘れ、自分の命が自然の恵みに支えられている事さえ忘却している現状が散見されるからだ。

 自分の命だからどう使ってもいい、などと傲慢な事でいいのか。自分の命を自分で作ったのならそれでもいいかもしれないが、命は自然なのだ。人間の意志を越えて誕生したのだ。などと、このくそ暑い中、40度を超す野良で雑草を刈り、ハウスに入り、トマトを収穫したりする中、頭の中が大混乱、迷走している。皆さんも気をつけて!                                                  おかげさま農場・高柳功