再びお米について

(産地の声)vol.169 一老農のつぶやき           2025.3.19

 3月も彼岸となって、早くも種まきが始まっている。当家は月末予定だが、今年も米不足が予想される。幾分でも早まった方がお米不足の解消につながるだろう。

 

 昨年の米不足があり、続けて意外な側面がでている。何人かの農仲間から種籾がほしい、といった問い合わせがあるのだ。米不足ならぬ種不足が生じているらしい。種がなければ作付けすることはできない。

 先週も書いたが、実情を知らないで分かったようなことを言う評論家の皆さんは、耕地はまだあるとか、耕作者有利に進めれば、などと言うけれど、それにはそれに見合うだけの条件がなければ、話のような訳にはいかない。

 50年かけてこの国は必死の体で、稲作の縮小を進めてきた。その結果が今の現状となっているのだ。よく言われる、減反政策はやめたと言われるが、実情は継続されてきた。また、お米の価格維持のためにも減反を続けてきたと言われているが、実際は逆で、東大の鈴木教授が言うように、30年前から半分の価格に下落し続けて来たのだった。マスコミも同じく、消費者目線だけで生産者目線はないと言っていい。

 本当にこの国の国民は農に対する認識というか、自覚というか、理解していないと思う。フランスやドイツ、オランダなどを短期だが数度訪問し、また従兄弟夫婦が20数年フランスに駐在していたこともあってよく日本との違いを話した。

 違うのである。最初に訪問したのは40年以上前だが、彼らの最初に発したことは、我が国は農業国です、だった。数度の訪問で分かってきたことは、日本社会は農業問題というと農家の問題として片づけてしまう。ところがである。フランスなどは、農業問題と聞くと、我々の食べ物の問題だ、反応する。いのちの問題なのだ。

 農と食を自分自身の問題としての認識を持っているのを強く感じる。

 いつも不思議に思うのだが、なんでマスコミはお米が高いだの、野菜が高いなどと、値段のことばかりに関心を持とうとするのか。どこのスーパーが安いの、安売り買いすることが天下を取ったかのような話は、きいていてうんざりする。

 これは人間が生きる上での見識の問題だと思うのだが、どうだろう。人が生きる上で何が大切で、何を守りどのような関係であるべきなのか、人としての分かっておかねばならない事を分かっていないのではないのだろうか、などと思う。

 上から目線のような、分かったような言い分に思えるかも知れないが、本心からそう思うので、未熟者の戯言として少しは考えてほしい。

                   おかげさま農場・高柳功